人文学部文化学科は人文学という学問分野に広くは位置づけられます。もしかしたら友人や家族に、人文学部なんかに行って、何を勉強するのか、何の役に立つのか、さらには就職には役立たないぞと言われた人も居るかも知れません。確かに、外国語はともかく、人文学部で学ぶ歴史学、哲学、文学、社会学、そして私の専門とする地理学などは就職の役には立ちません。そしてこのような役に立たない学問は、実はこの日本で非常に厳しい状況におかれつつあります。つまり、もっと社会で、地域で役に立つ人材を育てるために、すぐに役立つようなことや技術を教えるよう、文部科学省は強く地方の国立大学に求めています。

人文学で学ぶ内容のほとんどは卒業後すぐには社会に役立ちません。しかし、それはすなわちまったく意味のない学問だということではありません。ではどういう意味があるのでしょうか。

たとえば、人文学なら、すぐに「社会」に「役立つ」とは一体何かを問います。社会とは何でしょうか。誰にとって役立つものなのでしょうか。「我が国」「私たち」という言葉を使うとき、そこに誰が含まれ、誰にとって意味があり、誰が含まれていないのでしょうか。小難しいへりくつをこねくり回してと思われるかも知れません。しかし大学というところでは、物事を客観的に捉える方法を学ぶ場所であるなら、人文学の意義とは当たり前だと思われていることが本当に疑う事なき当たり前なのか、誰にとっての当たり前なのか、ほかにより良い可能性はないのかを問い続けるものであるはずです。これを批判するといいます。批判とは誰かの悪口を言ったり揚げ足を取ったりすることではありません。物事から一歩引いて見直し、考え直すことです。

考えてみれば、私たちはこれまで「当たり前の網」とでも言うべきものに入ってきました。年をとればとるほど、この網は細かくなっていきます。「○○すべき」「○○するのが当然」。世界は多様であり複雑です。しかしこの世界を理解し、管理するためには、物事はできるだけ単純な方が良い。こうしてすべきこと、当然のことが、当たり前になっていく。でも本来は多様な社会のなかで、全員が一つの価値観だけを正しいと信じていることは、危険だと思いませんか。往々にしてその全員とは、社会の多数派・主流派です。しかし、それによって居心地の悪さを感じている人たちが、ただ声が小さい、数が少ないというだけで我慢を強いられるのは、健全な世界なのでしょうか。そうではないと私は考えます。そしてこの当たり前の網を一本ずつ取っていく作業は、人文学部の学生だけでなく教員にとっても基本的なことだと思います。

どうすれば一歩引いて物事を見つめ直すことができるのか。それは当たり前を共有していない人、私たちとは異なる意見や価値観を持つ他者を見つけ出し、その人たちの声に耳を傾けることです。今生きている他者もいるでしょう。近くにいる他者、遠く離れたところにいる他者、遠い昔に本を書いた他者もいるでしょう。

私のスタートアップセミナーでは他者に耳を傾け、当たり前と思っている表皮を一枚ずつ剥ぎながら、自分自身の価値観を問い直します。グローバル化で遠く離れた他者と日常生活の中でどうつながっているのか。健康で健常な身体とは何か。そうでない人にこの社会はどのように見えているのか。何となく怖いと思っているイスラーム教、何となく嫌な韓国や中国、どうしてそう思うのか。それをセミナーの中で考えていきます。

考えたこと、思ったことは一人でじっと持っていても構いませんが、どうせならほかの人たちと共有したいものです。そのため、このセミナーでは、自分と他者がつながっていくためのいくつかの仕掛けをします。チームビルディング、ワールドカフェ、グローバルスタディーのゲームがそれになります。